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ラ・ラ・ラ・メディテーション

ラ・ラ・ラ・メディテーション

優れたセラピスト(ヒーラー)とは?

ある人が、優れたセラピスト(ヒーラー)になることについて、OSHOに質問しました。以下は、それへのOSHOの答です。


質問「私はもっとすぐれた治療者になりたいのです。そうすればもっと人の助けになれますから。」プレム・ムルティ(イギリスから来たばかりでヒーリングを職業としている)

 ヒーリングはもっともデリケートな次元のひとつだ。デリケートさは治療者の中に在るのであって,治療法の中にあるのではない。治療者は,実は,治療者ではない。彼が働き手ではないのだから。ヒーリングが治療者を通して起こるのだ。彼は自分を消さなければならない。

治療者であることの本当の意味は、彼はいないことなのだ。あなたが消えれば消えるはどヒーリングがそれだけよく起こるのだ。あなたがあればあるはど,通路は閉ざされる。

神,あるいは全体,どんな名前をつけてもかまわないが,それが治療者なのだ。全体(the Whole)が治療者なのだ。「ヒーング」ということばは「全体(whole)」と同じ語源から来ている。全体,健康(health)ヒーリング,聖なるもの(holy)はみな同じ語源から来ている。治癒されるとは全体と結合されることだ。病気とは全体から切り離されているということだ。

病人は自分と全体との間に障害物をつくりあげている人であり,何かが切り離されているのだ。治療者の働きはそれを結びつけなおすことなのだよ。けれども,治療者の働きはそれを結びつけなおすことだといっても,治療者が何かをしなければならないというのではない。治療者は働きかけるだけだ。治療するのは神,即ち全体なのだ。
 
それだから本当に治療者になりたいのなら、あなたは徹底して自分を殺さなければならない。あなたは自分が空であるのを受け容れなければならない。それがあなたの仕事となるのだ。自分がもっともっと空になることが。

だから,自分を空にしつづけなさい。自然が真空を嫌うように、神もまた真空を嫌うのだ。

自分を空にすれば、一方の側からあなたが出て行けば、他方から神が入ってくる。神はまったく同じ場所を占めなければならない。あなたが占めているその場所を。エゴが占めているその場所が神によって占められなければ、ならないのだ。つまりエゴと神とはひとりの人の中には同居できないのだ。

 それがヒーリングの,さらにはありとあらゆる技術の問題の全てだ。自分をなくすこと,無になることが。

だが,それは起こるだろう …誰もが治療者になれる。ヒーリングは呼吸のようなものだ。ごくあたりまえのことなのだ。誰かが病気だというのは,その人が自分を治す能力をなくしているということを意味する。自分自身の治癒力の源にもはや気づいていないのだ。治療者はその人が再び源と結びつく手助けをする。その源とは治療者が得ている源と同じなのだが,病人はそのことがわからなくなっている。治療者は全体と結びついているので,仲介者となれるのだ。,治療者は病人の体に触れ,病人と源との掛け橋となる。

患者は,もはや源と直接には結びついてはいないのだから,間接に結びつくことになる。エナジーが流れ出すとすぐに患者は治されるのだ。そして,もしも治療者が,本当に押解している人なら……というのは,治療者になれても理解してはいないということらあるのだから。治療はしているがどうしてそうなるのか知らない治療者がたくさんいる。治療のしくみを知らないのだ。理解も同時にできていれば,患者が治るのを手助けできるだけでなく.ヒーリングが生ずる源に気づくように助けできる。そうすれば,患者は今かかっている病気が治されるだけではなく,将来の病気からも守られる。そのときにヒーリングは完璧なものになる。治すだけではなく予防ともなるのだよ。
 
 祈りの体験,神の,愛の,全体の体験と、とでもいえるものにヒーリングはなる。
 
 だから,ここにいて,数日間はヒーリングをしないように。数日間瞑想して、私との周囲に育っているファミリーとチューニングを合わせなさい。チューニングを合わせなさいというのは、論理的に知的にものごとを吟味してはいけないということだ。ここで起こることを、それが何であれ深い信頼の中で受け容れなさい。ただ一致するだけでよいのだ。考えてはいけない。考えることは治療者には妨げのひとつなのだから。考えをやめることから始めなさい。

 ここではただからっぽでいなさい。議論も推論もできない小さな子供のようになりなさい。子供はただ受け容れるのだ。信頼することは子供にはあたりまえのことだ。私を、ここの人たちを、ただ信頼しなさい。あなたの理性にはそれは受け容れるのが難しいという時でさえも。

 受容には理性が飢え死にしてもかまわないほど値打ちがある。受容か理性かを選ぶときは、いつでも受容を選び取りなさい。理性もまたあなたがそれを受け容れる手助けをしだすのがだんだんわかることだろう。あなたが何事であれ受け容れて、イエスやノーが何の違いも生み出さなく時、理性もまたあなたの信頼に同調するのだ。あなたのなかで理性と信頼が出会う時、あなた自身の葛藤が超えられる。
 
 これが治療者になるための訓練の第一歩となるだろう。
    
 理性と信頼,ハートとマインドとの問に掛け橋が必要なのだ。マインドは二義的となり,ハートの道具となるような掛け橋が。普通はマインが主人であり,ハートは従わなければならない。そうするときには,医者にはなれるだろうが治療者にはなれない。セラピストにはなれるだろうが治療者にはなれない。セラピーは科学の一部であり,ヒーリングは宗教の一部なのだ。それだから,理性によっては,頭を使うことによっては医学の専門家にはなれるが,ヒーリング・エナジーをもつ人にはなれない。というのもそれは別の源から来るのであり,すべてがさかさまなのだから。

 ハートが主人となり,理性はただの影であり同盟者となる。このことばをおぼえておきなさい。 理性に対抗しろというのではない。理性に対抗すれば裂け目は消えず,あなたの内には葛藤が絶えない。だから理性には対抗しないで,ハートの味方だけをしなさい。もしも理性が何かいうのなら耳を傾けなさい。ハートに反対するのなら放っておきなさい。争う必要はないのだよ。無視するだけにしてハートのいうことに従いなさい。
 
マインドがハートに近づくのがだんだんにわかるようになる。マインドは,今や,養われず,食物をあてがわれず,飢えていると感じるからだ。マインドは理解しさえすれば協力するものだ。そしてマインドは状況がかわったこと、ハートが中心となり自分は同盟者にならねばならないことをよく理解する。マインドがハートと協力するとき,理性があなたの信頼と協力するとき,あなたのなかの裂け目に橋がかけ渡されるのだ。

 二つにひき裂かれていない時,あなたは媒介者となっている。ひき裂かれていないことが治療者となるための第一歩なのだ。これが、あなたのもっとも深い瞑想となるだろう。ハートのいうことに耳を傾けなさい。いままで以上に感じ取り、考えるのを少なくしなさい。

 何か葛藤が生じたら、ハートの味方をしなければならない。フィーリングに耳を傾けなければならない。たとえそれが不合理でも、不条理で、狂気じみてさえいたとしても。私はあなたをすぐれた治療者にしてあげよう。 
心配することはない。

OSHO
ダルシャン日記「Beloved of My Heart」より。




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